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〔雲仙市の偉人伝〕
明治維新150年事業
 平成30年(2018)は、明治元年(1868)から起算して満150年に当たります。
明治以降、近代国家への道を歩みだした日本は、多くの近代化への取り組みを行い、現在の国の基本的な形を築き上げました。進んだ西洋の知識を学び、日本の伝統を活かした技術や文化を新たに生み出しました。当時の歩みをつなぎ、つたえるため、全国各地でさまざまな関連事業が実施されています。
 雲仙市では、毎月一人ずつ雲仙市出身の先人の活躍を紹介します。
明治150年
(4月)
雲仙市の人物伝1  橘 周太(たちばな しゅうた) -千々石町-
 慶應元年千々石村小倉名に生まれ。幼年期、小浜村(当時)本多親秋(ちかあき)の玄谷(げんこく)塾に入り、漢学を修め、その後長崎の勝山小学校、長崎中学校を経て二松学舎で様々な分野の学問を修めました。明治14年陸軍幼年学校に入学、同20年陸軍士官学校を卒業。同24年に東宮侍従武官として、時の皇太子(後の大正天皇)の訓育に当たりました。明治35年名古屋陸軍幼年学校長に就任。幼年学校の生徒は、校長の高潔、至純の薫陶を受け、その道徳心を敬い慕いました。明治37年日露戦争に歩兵第34連隊第1大隊長として出陣。遼陽(りょうよう)会戦で、首山堡(しゅざんぽ)において壮絶な戦死を遂げました。昭和15年、軍神、教育者としての遺徳をしのび橘神社が創建されました。鳥居の一つは、当時の県内教職員、児童生徒の篤志により建立されたものです。
※訓育・・・素質・習慣などをよい方に伸ばすように、教え育てること。
橘中佐銅像(橘樹神社入口)
(5月)
雲仙市の人物伝2  植木 元太郎 (うえき もとたろう) −国見町−
 安政4年(1857)多比良村に生まれ、早くから鉄道の重要性に着眼し島原半島に鉄道敷設を企画しました。苦難の末、明治44年、本諫早−愛野村間に鉄道を開通させました。その後、島原鉄道および口之津鉄道・温泉鉄道・小浜鉄道を設立し島原半島鉄道網の整備を進めました。大正3年、島原鉄道株式会社初代取締役社長に就任し、昭和15年には初代島原市長となりました。
 鉄道開通時に国から払い下げを受けた車両には、明治5年わが国最初の蒸気機関車として東京(新橋)−横浜間を走った機関車(1号機関車)が含まれていました。この1号機関車は、重要文化財として埼玉県さいたま市にある鉄道博物館に保管されています。
植木元太郎
 植木 元太郎
(6月)
雲仙市の人物伝3  栗原 玉葉 (くりはら ぎょくよう) −吾妻町−
 玉葉は、明治16年、酒造業栗原宰(つかさ)の長女として、吾妻町(旧山田村)栗林地区に生まれました。幼い頃から苦労して勉強し、中学校を卒業した玉葉は、中学校の恩師の助けもあり、東京女子美術学校(現女子美術大学)で絵を学びました。卒業後は、大正3年第7回文部省主催展覧会を皮切りに次々に入選し、その名は多くの人に知られるようになりました。当時としては数少ない女性日本画家として活躍しました。大正9年、病のため40歳という若さで亡くなり、玉葉の遺骨は東京の天王寺と上原墓地(旧山田村)に分骨されました。「小女」(島田家蔵)
  玉葉作「小女」(個人蔵)
(7月)
雲仙市の人物伝4  田中 平治 (たなか へいじ) ー愛野町ー
 田中家は、愛津村で江戸時代から続く農家で、地域でも中心的な、研究熱心な農家でした。6代目の平治も、郡会議員、村会議員などを歴任し、地域のリーダーとして、村のための多くの仕事を行いました。
 愛野村の新田干拓事業は、田中家が主要メンバーの一人として進められましたが、当時は排水も悪く、ほとんどの水田で二毛作ができませんでした。平治は、耕地整理の必要性を痛感し、先進地熊本県内田村の事例などを参考に、調査研究を行い、明治36年、県と交渉を進め、愛野村全域の耕地整理と排水工事などに取り掛かりました。耕地整理については、自分の水田の位置が変わったりするため、賛同を得るのが難しかったようですが、平治の懸命の説得でついに実施されました。その結果、明治36年から43年にかけて、8地区130町歩の農地が二毛作できる美しい水田となりました。
 平治はこの事業の成果により、内務省の表彰を受けました。
田中 平治
 田中 平治

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