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|  | 日本の昔話研究の開拓者 関 敬吾 |
関敬吾(せき・けいご)氏は、雲仙市小浜町富津出身の民俗学者で、日本の昔話研究に大きな業績を残した人物です。 雲仙市では、関敬吾氏の功績を紹介する映像を作成しました。
「日本昔話研究の開拓者 関敬吾」動画はこちら https://youtu.be/d3qbpGwdrXs (外部リンク)
●生い立ちと“関三兄弟” 関敬吾は、明治32年に富津の網元である関家に誕生しました。六角井戸の裏に生家跡があります。 5男5女の10人兄弟の末っ子として生まれ、幼い頃から母や近所のおじいさんから地元の昔話を聞いて育ちました。 母のタダシは子どもたちの教育に熱心に取り組みました。そのおかげで、長男・一男(かずお)と次男の二翁(つぎおう)はともに軍医となりました。 しかし、結核にかかり早世してしまいます。 3男の衛(まもる)は、小学校の教師をする傍ら、児童の芸術教育の研究に取り組みました。全国の研究者と交流し、数多くの論文を残しています。 4男の寛之(かんし)は、東洋大学に進み児童の宗教心理について研究を行いました。東洋大学などで教鞭をとり、戦争疎開で小浜町に戻ってからは地元のために尽力しました。 5男の敬吾は、『遠野物語』で知られる柳田國男らと共に民俗学の研究を行い、日本の昔話研究に大きな功績を残しています。 衛、寛之、敬吾の3人は、“関三兄弟”として地元で親しまれています。
●関敬吾の生涯 富津で生まれ育った敬吾は、兄たちが学問の道に進んだため、家を継ぐように両親から求められますが、敬吾も学問を志し寛之を頼り家出同然で上京しました。 その後、繁忙期は家の経理を手伝うという約束で東洋大学へ進み哲学を学びます。その一方で東京外国語学校(現東京外国語大学)でドイツ語を2年間勉強しました。 卒業後は、東京大学附属図書館の司書として働きました。その時に、柳田國男と出会い、民俗学の世界に入ります。 関敬吾は柳田國男が主催する勉強会の「木曜会」に参加し、仲間の研究者らと共に昔話の研究を深めました。 戦後に、フィンランドの民俗学者アンティ・アールネの分類法を元にした『日本昔話集成』を完成させました。これにより、日本の昔話研究は世界の舞台に乗ることができました。 しかし、この『日本話集成』の発表により、敬吾は柳田國男と袂を分かつことになってしまいました。 敬吾は大学でも教鞭を取り、学芸大学の教授として、定年まで勤めると、その後ドイツのゲッティンゲン大学に客員教授として招かれ、1年半異国での生活を送りました。慣れない土地での無理が祟り、帰国後は結核で入院します。 帰国後は、入院生活を送る傍ら、原稿執筆を行い、多くの著作を残しています。
関敬吾を知る人物の証言から、昔話研究に生涯を捧げた敬吾の生涯と人物像に迫る映像を作成しました。 動画は近日公開予定です。
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